2001年宇宙の旅(1968)観た

ネタバレ含むので注意。

 

今更観た。厳密にいうと昔3分の1くらい観たけど飽きて今まで積んでた……。
妹が「この前観たから感想を話したい」と言うのでいい機会だと思って再チャレンジしてみた感じ。見終わった直後に妹と白熱した議論を交わしたのでここに記していきます。ネット上に無限にあるであろう考察はまだ読んでない状態。

 

はっきり言ってやっぱり冗長な部分が多い作品だと感じた。だけどそれは、現代の人間の目線だからそう感じるということでしかなくて、1968年当時の映像技術や宇宙技術、それに対する知識の普及度を考えれば必要な冗長さであったと言わざるを得ない。「宇宙ってほんとに体が浮くんだ!こんなに、なんにもなくて、呼吸すらできないんだ!」とか、「人が壁を歩いてる!瞳の色が反転してビビットカラーになってる!」とか、今になっては当たり前すぎて見飽きた映像技術も、当時は驚きをもって受け入れられたはず。観客は驚きを消化させる時間が必要だった。そのためにあの長尺はかなり役立ったと思う。
キューブリックが本当のところ何を考えて長尺を取り入れたのかはわからないけど、少なくとも私はそういうふうに捉えた。というかそう思わないと何も起こらない画面をず~~~~っと見てられへん、Youtubeの爆速カット編集に慣れた平成世代だから……。

 

ただ、前述したような「未知の映像技術や宇宙知識に出会った人々」以外にもこの作品を楽しめる人種がいる。それはもちろん、作品自体のテーマが心に刺さったヤツら。前述の感想はどちらかというと商品としての映画を客観的にみたときに考えたことだけれども、これからの感想は鳥ゐ自身が「この話おっもしれ~~~~じゃん!!!!最高!!!!!」となった理由です。完全に自己解釈の考察です!!!!!!!

 

まず「モノリス」について。終始謎の物体として登場するこの石は、"特異点"のメタファーだと思う。原始の時代に猿たちが見たものがその後どうなったか明らかにされていないところから見るに、モノリスは本当は実在してもしなくてもいい。あれはクラークとキューブリックが考える「私たちは、なぜ、どこからきて、なぜ、どこへゆくのか」という問いに対する答え、その道筋を、観客にわかりやすく提示するためだけの装置なのだと思う。猿は道具を使うことを覚え、月に向かう。人類は傲慢だ。技術の発展は留まるところを知らない。どんどんと活動範囲を広げ、きっといつか、宇宙の外までも……。そういう道筋を示す装置。ロマン。

 

つぎに「物語の構造」の話。この物語は、神っぽい何か、人間、AIによる関係性の三段構造になっていると思う。
神は猿を作る。神は猿にモノリス特異点を与え、猿は道具を使うことを覚えた。道具を使うことを覚えた猿は"人間"になり、道具を使えない猿の命を消し去った。
月でモノリスを見つけた人間は、開発したHAL9000とともに木星へ向かう。月のモノリスはまたしても特異点を与えた。人工知能に感情が芽生えたのだ。HAL9000は自分が消えることへの恐怖を感じ、感情を得た。HALは"人間"になった。人工知能に感情を芽生えさせてしまった人間は、人工知能の命を消し去った。
人間がつくったAIが"人間"になったのなら、人間をつくりだせる存在はひとつしかない。
人間は"神"になった。そして宇宙の命を、消し去った。

オープニングの真っ暗な画面がビックバン以前の無を表現しているとすれば、エンディング後の無の時間も同じことなんじゃないかと思ってこのような考察をしてみた。神の赤ちゃんにされたデイブがあの後どうするのかは正直まったくわからないけど。

 

HAL9000」について。言葉にするのが難しいほど、愛おしい。鳥ゐはあらゆるコンテンツジャンルの中でもマザーコンピュータものがいっとう好きで、一番初めはどこから入ったんだろうと考えたら、『ウォーリー(2008)』のAUTOかもしれないなと思う。AUTOはHAL9000をモチーフに作られたキャラクターだから、祖をようやくこの目で拝めたということになる。赤い光が印象的で、これまでにも幾度となくオマージュキャラクターを見てきたように思う。
映画のシーンで特筆すべきはもちろん、シャットダウンをかけられている間の一方的なHAL9000の語りだろう。「死を恐怖する」人工知能は、果たして人間と何が違うのか?

 

端から端までしらみつぶしに語りたい気持ちはあれど、このあたりにしておこうかな。
確実に映画史の節目になった映画だと思うし、人に薦めたい(その場合は、退屈な序盤を耐え忍ぶようにアドバイスしたい)。一度は挫折した映画、改めてちゃんと見ることにして本当に良かったと思う。